つつましいドラマがある暮らし|旅、デザイン、対話、協働、編集


何日か群馬に帰ってきて、友達や家族とゆっくり過ごしました。今日からしばらく九州〜北海道〜中部・東海を転々とします。

最近気付いたのですが、自分は根っからの旅人ではありません。必要だから旅をするけれども、こっちのほうが好きです。静かな井野川。しゃべらない近所のあんちゃん。 


私の願いは、つつましいものだと思います。

静かに暮らしたい。遅く起きた朝に、庭の草花に水をやる。その代わりに、彼らにかまってもらう。その後は、料理をして、家族とゆっくりご飯を食べたい。洗濯物はきらいだけれどもしよう。少しテレビゲームをした後は、木々がざわめく音と共にレコードを回しながら昼寝をしたい。

気が向いたら近所のおばばの酒屋で怒られながら酒を買って、ひっそりと飲みながら、井野川に夕日が沈んでいくのを散歩したい。 

ここは小学校の時の通学路だった。イネ科の雑草が風が揺られているのがいい。

ちょっと酔っ払っていい気になったら、銭湯に行って、湯けむりのなか、暮れゆく空に滲む星を眺めていたい。
高崎駅の友人の店で飲み、好きな人たちに偶然に会いたい。わざとらしいのは粋ではないと思う。お茶をしたり、手作りのビールを嗜んだりして明日になったら楽しかったという感情くらいしか残っていないような音楽や身の上話をしたい。
月明かりを頼りに家路につき、あたたかい家で家族と夕飯が食べたい。

布団の中で散文を書きながら、その途中でうとうとしながら、知らぬ間に寝たい。そういう、なつかしくて新しい思いの中を巡り、未完の詩の中を彷徨っていたい。 


旅と同じように、対話と協働は、私にとってたいへんに気力と体力が要るようです。

それは、私からすればスポーツみたいです。容易には意味が通じ合えない他者とタフなコミュニケーションを立ち上げる、あるいは、そうしようとする人々の間に立ち続けるというのは、よっぽとスポーツマンシップ的な何かがないとできないと思います。

最初は冗談で「対話と協働は、スポーツみたい」といい始めたけれども、本当にそのように思ってきました。私はもともと体も精神も虚弱なので、じめじめとしたところで発酵をすすめるように、ゆったりじっとしていたい。


ローカルの暮らしと文化が、静かに健やかに続いていくものであってほしい。

いつでも、いつまでも、家族や友人、その子どもたちが健やかで幸せであってほしい。

その想いがつよいからこそ、こんなにも持続可能性が脅かされている社会の状況を目の当たりにしながら、今すぐに旅に出ない、そして、対話と協働をしない、つまり、現状維持をするというリスクを私はとるほどの勇気がありません。


旅は、ありえなかったつながりを生み、ありえなかった変化をおこします。

旅とは、デザインと対話と協働、そして編集の組み合わせかもしません。
デザインは、目に見える戦略をつくり、
対話は、関係性と心の統合をすすめます。
協働は、手で変革を現実のものにします。
編集は、残すべき足跡を次につなぎます。

皆がその手段にうって出るべきとは思いませんが、少なくとも、私よりも、実は旅や好きそうな人たちは、たくさんいるのではないかと思うのです。その人たちはすぐに部屋を飛び出して、旅に出たらいいいと思うのです。そして、どんどんデザインして、対話と協働、編集をしたらいい。好きな色に描いていいんだ。

そういう人たちが各地で勝手にどんどんと育つような地方の文化を残して、人生という旅を終えられたらいいと思っています。


さて、ひとっ風呂浴びたら、いってきます。

なにかおいしい地のものが食べられるかなあ。

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